七夕の主人公、織姫と彦星は皆さんも知ってのとおりだと思いますが、では織姫と彦星、絵に描けますか?と言われらたらいかがですか?
顔はまぁ適当に書くとして、服装は?あれ?着物だっけ?なんとなくこんな感じだと想像はつくのですが、いざ描いてみてと言われると、難しいものです。
彼らはいつの時代の人で、どんな服装をしているのでしょう?
その詳細を調べてみたいと思います。
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七夕伝説はいつの時代、どこが発祥なの?
「七夕の日が雨だと織姫さんと彦星さんが会えなくて困る」
ということは皆さんご存知の七夕のお話だと思いますが、では実際の七夕伝説はいつの時代から伝えられているものなのでしょうか?
七夕は3つの説が混ざり合ってできたものと言われています。
1.日本の古い行事「棚機(たなばた)」から
昔、「棚機女(たなばたつめ)」という選ばれた乙女が田畑の豊作や人々の幸せを願い、神さまのために棚機(たなばた)という機織り機を使って着物を織ったことから。
のちにお盆の準備として7月7日に織るようになったため、「たなばた」と呼ばれるようになったとのこと。
2.おりひめとひこぼしのお話から
織女(こと座・ベガ)星と牽牛(わし座・アルタイル)が一年に一度、会うことを許されその二つの星が川を挟んできれいに見えることから、旧暦の7月7日をめぐりあいの日としたお話が中国で生まれたとのこと。
3.中国のお祭り「乞巧奠(きっこうでん)」より
織女星にあやかり、機織りや裁縫がうまくなりますようにと、針などをお供えし、星に上達を祈ったという中国で生まれたお祭り「乞巧奠(きっこうでん)」に影響され、日本でも奈良時代に宮中行事を行うことになった。
これら3つの説が交ざり合い、のちに7月7日の日を祝うように、七夕を行うようになったと言われています。
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織姫と彦星の服装について
織姫と彦星のイメージは皆さん持っているでしょうが、ではどんな服を着ていたのでしょう?
先ほどお話した「七夕伝説」が日本に入ってきたのは奈良時代の遣唐使によるものと言われており、その奈良時代に女性が着ていた衣装が、織姫の服装だと考えられています。
イメージとしては、その当時の唐の女性が羽織っていた、薄い生地でひらひらとした被はくというものではないかと言われています。
唐の影響を強く受けており、竜宮城の乙姫様も同じようなひらひらとした被はくを着ていたようです。
では男子、彦星様はどうでしょう?
正しくはあまり語られていませんが、奈良時代の聖徳太子のような恰好で、広い袖の衣装と考えられています。
織姫様も彦星様も服装の正しい見解はわかっていませんが、おそらく唐の影響を受けているのではないか?と伝えられています。
想像するに、きっとステキな色の糸を使った刺繍や様々な絵が描かれていたのではないでしょうか?
私達が「織姫様と彦星様」をイラストに描いたり、想像する時は確かそんな感じの衣装で描いたりしていますよね。
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おまけ・・・七夕の歴史 昔はどんなことをやっていたの?
今のように多くの人たちで七夕の行事を行うという形は平安時代の頃からだそうです。
宮中ではなすやうり、桃などの食物を供え、星を眺めながら歌や音楽を楽しみました。
それは星座をもとにしながら作物を育てる時期を皆に知らせるというものでした。
また里芋の葉にたまった夜露を墨で溶き、和歌を書いていましたが、それが七夕の短冊の始まりと言われています。
昔から今と同じようなことをやっていたのかと思うと、なんだか不思議な気持ちになりますよね。
庶民でも七夕をお祝いし始めたのは江戸時代。
野菜や果物をお供えして、詩や文字書きの上達をお祈りしていたようで、そのような流れがずっと続き、現在の、竹や笹に五色の短冊に願い事を書いてつるすという七夕の流れになっているようです。
まとめ
「織姫と彦星の衣装」についてはこれだ!と記されている書物はなく、七夕の歴史と同様、中国の影響を受けていることがわかりました。
平安時代や奈良時代から今に至るまで、目的は少し違うものの、星を見ながら、皆がその時代をよくしよう、こうしてがんばっていこうとお願いしていたと思うと、うれしくなり、七夕をもっと大事に考えていこうという思いになりますね。
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